1.第四戒―「20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。」
・安息日とは他の日から区別する日(安息日=ヘブル語シャーバット、シャバース=中止する、カーダシュ=区別する)。日常労働からの休息と解放の日。それは本人だけでなく、家族や使用人や異国人にも同じように命じられている。それは神の創造の業を覚える日、神の救いの業を覚える日である。
・祭司典記者はバビロン捕囚の中で、神の創造を覚えた。罪を犯して捕囚となったイスラエルをも「良し」と言われた神を覚える。わたしたちは「良し」とされた存在、能力ではなく存在により「良し」とされたことを喜ぶ日である。
・エジプトから救い出された主の「強い手と伸ばした腕」を想起し、感謝して喜ぶ。この喜びは同時に隣人をも解放す
るものとなる。救いは必ず倫理的責任を伴う。イスラエルが救われたのはイスラエルに使命を果たさせるため、私が救
われたのは隣人を救うためである。アブラハムへの祝福は全ての民族への祝福の基となるためであった。
・祝福の具体化である安息日をパリサイ人は戒律の日にしてしまった。イエスはこれを批判しあるべき姿を示された(安息日の主は人である)。神の祝福に相応しい形を求める。キリスト教会は安息日を主の日として祝う。789年にシャルルマニュウが日曜の全ての労働を第四戒違反として禁止したとき、日曜日の世俗化が始まった。「ねばならない日としてでなく、自由な日としてこの日を過ごすべきではないか。かくて、我々はこの日に教会に行くのではないか。」(バルト)
2.第五戒―「20:12 あなたの父母を敬え。」
・イスラエルでは家族は血族共同体であると共に、宗教共同体であった。両親は子供に対して神の権威を代表し、家庭における宗教教育は両親の重大な責任であった。両親に服従することは神への服従につながる。
―申命記5:16「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」
・元来は成人した子に対し、年老いた両親への配慮を主が命じられたもの。年老いた両親への尊敬と配慮は「主が賜る地で、父祖の遺産と共に長く生きる」生活の条件である。
―箴言23:22「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。」
・しかし、その服従は神への服従の戒めの下にある。
―マタイ福音書10:37「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」
3.第六戒―「20:13 殺してはならない。」
・「殺す」とは故意に人を殺すこと。私的殺人は律法で厳しく裁かれた。しかし、後代になると、復讐は神ご自身がされることが強調され、復讐制度は克服されている。ヨブも神の審きを求め、贖いの道を示している。
―出エジプト記21:12「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。」
―申命記32:35「わたしが報復し、報いをする/彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。」
―ヨブ記19:25「わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。
・「目には目を、歯には歯を」と言うイスラエルの倫理は古代社会の中では際立って高い。また、過失による殺人は処罰の対象ではなかった(逃れの町の規程)。第六戒は「殺さない」ことよりも、「生かす」ことにアクセントがある。人間は神の形に造られた故にこれを殺してはいけないのである。
―創世記9:6「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」
・イエスが第六戒を「怒るな、和解せよ」と根本にまで遡って解釈されるとき、第六戒は愛の戒めとなる。「殺すな、生かし合え」と言う倫理は今日では公害や中絶、自然破壊等の問題にぶつかる。
―マタイ福音書5:21-22「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
4.第七戒―「20:14 姦淫してはならない。」
・聖書は人間は神の形に、男と女に創造されたとする。
―人間は交わりを本質的な在り方として生きる。聖書において結婚は積極的に肯定される。この結婚の秩序を乱すものとして、姦淫がある。
・預言者たちは結婚を神とイスラエルとの契約の比喩とした。姦淫は神との契約に対する背反であり、その契約の乱れが姦淫として具体化した。そのイスラエルを神は憐れみによって許し、自ら契約を更新し給う。イエスが言われたのは外面のみを守る道徳の欺瞞であり、悔改めであった。倫理は信仰に根拠を持たない限り、徹底できない。
―マタイ福音書5:28「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
・「女の将来を考えぬ恋愛は単なるセックスだ」(武者小路実篤)。人格として異性と結び合う結婚の意義を教会は伝える必要があろう。ゆがんだ性の在り方は人間の命さえ奪うータイやインドにおけるエイズの蔓延等はそれを示す。
5.第八戒―「20:15 盗んではならない。」
・原型は「あなたの男または女を盗んではならない」とされ、本来は誘拐を禁止したもの。遊牧の民から農耕の民へと発展する歴史の過程の中で、盗みは個人倫理の問題であると同時に共同体への裏切りとして信仰の問題でもあった。
・王制以降、強者と弱者、富者と貧者の格差、対立の中で、盗み・貪りが社会的の問題になってきた。エリヤはナボテ
のぶどう園を横領したアハズ王を激しく責めるが、預言者は王権を上回る神の主権を主張する。・アモス・イザヤ・エレ
ミア等の預言者は盗みを社会階級の搾取と関連づけて糾弾している。社会倫理における盗み、神の所有の私物化として
の不正な所有の追及は正義の問題でもある。
―詩編24:1「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。」
・全ては神のものであることを認識する。そのとき、植民地支配や経済的侵略の罪責が明らかになる。南北問題も北の貪り・南の貧困と言う構図が明らかになる。隣人の所有の権利のために、己の所有の罪を告発しなければならない。
―マラキ書3:5「裁きのために、私はあなたたちに近づき/直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者/雇い人の賃金を不正に奪う者/寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者/私を畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。」
6.第九戒―「20:16 隣人に関して偽証してはならない。」
・法廷においては二人以上の証人を必要とした。公の場における隣人としての、公人としての義務と責任を追及している。それは単なる偽証の禁止ではなく、困窮の中にある隣人のために真実を証言することが求められている。
―出エジプト記23:6-9「あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。偽りの発言を避けねばならない。罪なき人、正しい人を殺してはならない。わたしは悪人を、正しいとすることはない。あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである。あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。」
・神の真実を求めるものにとって、事柄は私のことである。周囲にある欺瞞的なこと、隣人の不当な苦しみに対し、私
が証言し、偽証してはならない。偽証を不作為まで含めたとき、それは積極的な行為(不正に対する告発)になる。
7.第十戒―「20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
・貪りとはみだりに欲しがること。それは特定の行為と言うよりも、その源泉であり、その動機でもある意志を問題に
する。それは内面の罪である。生きるに必要なものをへの感謝を忘れ、養いたもう神に感謝しない罪である。自分の生
を神から受け取ろうとせず、自分で確保しようとする不信仰から、「思い煩い」と「貪り」が生まれる。
―ルカ12:15「そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、
人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
―マタイ6:30-32「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思
い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必
要なことをご存じである。」
・この貪りが権力に結びつくとき、弱者からの収奪になる。貪るなの禁止が愛せよに変わるとき、積極的な行為になる。
―ミカ書2:2「彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人から家を、人々から嗣業を強奪する。」